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「いき」の領域 1.2

図は、拙作の「『いき』の領域 1.2」である。これは、「いき」の相対的な位置を示す図であり、内部的な構造についてはまた別の図が必要になるだろう。ここで重要なのは、「いき」とは日常そのものではなく、やや離れてはいるが、奇想天外なものではない、ということである。「何かいい感じ」、something goodである。

この図は、いくつかの思索の出発点となる。

「何をもって日常性とすべきか」ということについては、「我々が共有している日常」ということになる。江戸や日本という狭い文化では、季語や枕詞で日常が共有されてきた。「いき」はそのような文脈では容易に成り立つ。だが、たとえば、互いの文化を知らない日本人とフランス人がいたとすると、彼らが互いに共通のものに「いき」を見いだすには、あらかじめ共通の文脈が必要になる。これは、よく探せばみつかるものだ。

サムライからチョウニンへ - カタナを捨てた僕たちは「心意気」で勝負する

ハリウッドだけでなく日本でも相変わらずサムライがもてはやされているが、これは浮世絵と同じように、逆輸入されたイデオロギーにすぎない。今の日本人の大半にはサムライの血など流れていない。また、それでよいのだ。
特に政治家などがサムライを気取るときは焼死、もとい笑止に感じる。あんたのひいじいちゃんは刀を振り回していたのか?
まあ、実際にそうだぜ、という人もいるだろうが、だからどうした、という気もする。
かといって、農耕民族と誇り高く自称できるほど農業に詳しい人間も日本人では少数派だろう。まあよくて「元」農耕民族というところか。
士農工商で、今の大半の日本人にあてはまるのは、士にあらず、農にあらず、工と商、すなわちチョウニンだ(どちらかというと商は「通」、工は「いき」と感じる)。そして、「いき」とはチョウニンの美学である。二本差しの権威に立ち向かう「心意気」で勝負する。サムライはすでに過去の亡霊でしかない。

ファッション雑誌での「かっこいい」と「かわいい」

あるファッション雑誌の中吊り広告で、「かっこいい」女と「かわいい」女を対比させていた。 「いき」は、この文脈での「かっこいい」に通じるものがあるような気がする。ただし女性の場合のみ。 「かっこいい」男の場合は、的はずれではないけど範囲が広すぎる。 kawaiiはいまや英語でも通じることがあるが、「いき」とは方向性が違う。

みなさんのお考えは?

花火が「いき」なわけ

花火が「いき」なのは、数秒しか続かない美に心血を注ぎ込む、職人の意地を感じさせるからだ。
年から年中、毎晩やって、しかも一度開いた花火がもし夜空に固定されていたら、醜悪なネオンと変わりない。桜と同じで、散るからこそ美しい。

それに加えて、(有料席というのもあるようだが)「だれにでも見せる」という太っ腹なところが「いき」なのだ。

通ぶること

『タイガー・アンド・ドラゴン』なかなか面白い。

落語は、本では十何冊か読んでいるので、主な話は知っているつもりだ。なかでも「酢豆腐」などはお気に入り。

落語の中でももちろん「いき」や通の話はでてくるが、通ぶって知ったかぶりをするような話が多い。やはりあえて「語ってしまう」と、「いき」や通の輝きは失われるものかもしれない。まあ、それは承知で「いき」について論じているのだが。

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