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京都の看板

看板というものは「目立ってナンボ」のものである。だが、それにもかかわらずこの控えめな看板。京都ならむしろ「すい」と言いたいところだが、東京ではこのような「いき」は絶滅に近い。

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コメント

写真に引かれました。
この日記みて中島誠之助も
「いい仕事してますね~」
っていうんだろうなぁ
なんて、思いました!

昔は日本全国、こうだったはずなんですけどね。これが貴重に思えるのは今だからかも。

わーい。ずいぶん、ごぶさたしてました。
お元気でした?頂いたメールを読んで早速お邪魔しました。
かっこいいブログですね♪
それにしても今の時代の粋って一体なんなんだろう。。
プロダクトデザインなんかでよくあるような
シンプル且つ機能的な製品みたいなものなのかな。
今はやりの「スローライフ」なんかも
シンプル且つ機能的が常套句のようになっているけれど
シンプルや自然体を装っているように見えてしまう
ケースも多々あって、逆に野暮だと感じてしまうことも
あるような気がします。自然体過剰ってことなのかしら(笑)
それから、粋って「健康的」なのかなーどうなのかなー…?
れれ…。なんかヘンなこと言ってます、私?

まちこさん、ごぶさたします。
健康って言うのは「退廃的」と比較して?
退廃的ではないかな。ただ、単に健康なだけではつまらないのかも。奇抜でない程度の「ひねり」があるのでは。

そうそうタイハイ的…
というか写真を見て思ったんだけど「わび」とか「さび」のベクトルが<聖>に向いてるとすれば「粋」が基本的に「俗」に向いているような…?大衆の目を意識してるからある意味<俗っぽい>。でもだからこそ艶っぽい。コケティッシュというと緩すぎるのかな?とにかく絶妙のバランス。

(以下は主に人が対象の場合)

聖と俗という対比だとどうもキリスト教的に感じるかな。「いき」が俗であることは確かだけど。「コケティッシュ」にまではいかないと思う。見られることを意識しているのは「いき」ではないので。

カメラ目線も、カメラを意識していると「いき」ではない。たまたまその一瞬「そうなった」ならともかく。だから、背中から撮った写真のほうが「いき」のはず。見られるための装いをしたとしても、「今見られている」ということから、見られている人の意識が離れてる必要がある。「見られている人」としてではなく、「ただそうあること」、その在り方、存在自体に「いき」を感じるのでは。

ほうほう、なるほど。
私はカフェテーブルの写真にぐっときたのね。
それで、粋ってなかなかテクニカルなものかと思ったのだけれど、それもちょっと早計だったのかもと思う。
そのもの自体が内在する”心の”「在り方」がまずあるわけね。どの角度から見ても揺るがないような。だからシンプルなわけか。

イートランスラーニングを読んでここに来てみました。写真がどれもすっきりしていますね。
いつもよいお天気の時にとっていらっしゃるのでしょうか。

なかなか


いつも「デジタル翻訳基礎講座」読んでいます。
いつのひか翻訳者になりたいとおもいこの本も
ずっとずっと大切にしていくつもりです。
これからもよろしくおねがいします。

バックアップ のことなどすっかり忘れていました…

あんでぃさん、こんにちは。

ご愛読ありがとうございます。

お察しの通り、写真を取るときは日の照り具合を気にしています。白飛びすることもあるのですが。

分野にもよりますが、翻訳者になる方法はたくさんあると思います。ぜひがんばってください。

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